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田辺城(舞鶴城)
田辺城の歴史
田辺城は天正10年(1582)の本能寺の変後に隠居した細川藤孝(幽斎)の居城として築城されて以来、約290年にわたって領内統治の中心的存在でした。
明治6年(1973)に廃城され、昭和15年(1940)に文化財陳列館として隅櫓を模した現在の姿になり、本丸があった場所は舞鶴公園になっています。
「舞鶴(まいづる)」地名の由来
田辺城の別名である舞鶴城(ぶかくじょう)にちなんで「舞鶴」の地名がつけられました。
明治2年にこの一帯を城号から「舞鶴藩」と名付けたことが始まりとされています。
アクセス
【田辺城】京都府舞鶴市南田辺15-22
- 車・バイク 舞鶴若狭自動車道「舞鶴西IC」より6km
- 電車 JR山陰線・舞鶴線「西舞鶴駅」徒歩10分
- バス 京都交通バス「本町」下車、徒歩3分
【駐車場】近くの市営駐車場(1時間無料)
二重櫓(にじゅうやぐら)の内部
模擬ニ重櫓の内部は無料で開放された展示室になっており、2階に上がることもできます。
舞鶴市田辺城資料館
立派な大手門の2階部が資料館になっています。
展示している火縄銃を実際にを手に取って操作したりもできます。
資料館では珍しく写真撮影も可能です。
【開館時間】9時〜17時
【休館日】月曜日定休・祝日の翌日・年末年始
【入館料】一般200円(団体150円)
学生100円(団体70円)
細川藤孝(幽斎)|当代屈指の文化人
略歴
天文3年(1534)〜慶長15年(1610)。
将軍足利義輝から足利義昭の側近として仕え、室町幕府再興に尽力しますが、義昭と織田信長の反目を期に明智光秀の与力として仕えます。
居城宮津城より中国地方へ出陣のおり本能寺の変の知らせを受けると即座に息子忠興と共に剃髪し、家督を忠興に譲って幽斎と号します。
山﨑の戦いで明智光秀が倒れ、光秀に応じなかった細川家は羽柴秀吉に仕えます。
秀吉亡き後は徳川家康と誼を通じ、後の関ヶ原の合戦時には家康率いる東軍に与します。
まさに波乱万丈の人生を生き抜き、77歳で京都にて没しました。
細川忠興とガラシャ|戦国時代の悲劇
幽斎の息子である細川藤孝の妻は明智光秀の娘であり、洗礼名のガラシャとして知られています。
絶世の美女として伝わるガラシャは本能寺の変の知らせを受けると謀反人の娘として直ちに幽閉されますが、後に秀吉の計らいにより細川家に戻ることを許されました(1584年)。
秀吉亡き後関ヶ原の合戦(1600年)時、東軍として忠興が上杉征伐に参戦した折、細川家の大阪屋敷において石田三成方西軍に囲まれ、要求を拒んだガラシャは命を落とします。
バテレン追放令がしかれる中で洗礼を受けたガラシャに対し激怒した忠興も、神父に教会葬を依頼し葬儀にも参列したと伝わります。
芸は身を輔く|関ヶ原合戦の攻防
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦において、田辺城にあった細川幽斎は西軍の大軍勢に攻められます。
1万をゆうに越える西軍に対し、籠城した幽斎の兵は500人程度であったそうです。
籠城戦が52日にも及んだ時、後陽成天皇の勅命により包囲がとかれ幽斎と城兵は命を拾います。
この勅命は幽斎が「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者であり、古今伝授廃絶の憂慮から発せられたと伝わります。
正に「芸は身を輔く」の諺を地で行くエピソードです。
ゆるキャラ「ゆうさいくん」
田辺城跡の城門で出迎えてくれた舞鶴市のゆるキャラ「ゆうさいくん」。
文武に秀でた戦国武将であった細川幽斎は現代の人達にも愛されています。