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千畳閣(せんじょうかく)は広島県の日本三景に数えられる世界遺産の島「宮島」にあり、国の重要文化財に指定されています。
千畳閣|豊臣秀吉公を祀る豊国神社
豊国神社
豊国神社とは全国各地に建立された豊臣秀吉を祀る神社の総称です。
戦国武将達が活躍した中世から、徳川家康が興した江戸幕府の統治による近世、近代を経て現代も現存するという事は大変貴重なことに思えます。
因みに千畳閣が豊臣秀吉が祀られる豊国神社となったのは明治時代のことです。
天下人 豊臣秀吉
戦国武将であり、主君織田信長の後を継ぎ天下人となった豊臣秀吉。
元は貧しい農村の出身であった木下藤吉郎は、天下布武(統一)を掲げ戦さに明け暮れる織田信長に認められ、類稀な才覚を発揮し1代で日本一の権力者にまで登り詰めます。
諸説ありますが1537年(天文5年)〜1598年(慶長3年)、62年の生涯でした。
島国日本とはいえ、1国規模のサクセスストーリーを1代で体現した人間は世界に類を見ないでしょう。
凄まじい人物です。
千畳閣が建立された戦国時代
千畳閣は1587年(天正15年)に豊臣秀吉が安国寺恵瓊に命じて建立しました。
戦国時代 建立時の情勢
本能寺の変で織田信長が倒れたのが1582年。
中国地方で毛利軍と対峙していた羽柴秀吉が中国大返しを経て、山﨑の合戦であっという間に明智光秀を打ち倒したのは有名な史実です。
その時、毛利方の和睦交渉役を務めたのが安国寺恵瓊でした。
1583年には賤ヶ岳の戦いにおいて、羽柴秀吉が柴田勝家を打ち負かし織田信長の後継者の地位を確立します。
1585年には四国討伐、1590年には九州征伐に小田原征伐から奥州まで平らげ、豊臣秀吉は天下人となります。
安国寺恵瓊
安国寺恵瓊が外交僧を務めた毛利氏も1985年に羽柴秀吉の軍門に下ります。
毛利方の外交僧であった安国寺恵瓊は、羽柴秀吉の側近としても仕え四国征伐後には伊予国に所領を与えられ、九州征伐後には6万石に加増されるなど、天下人への覇道を突き進む豊臣秀吉の信任が厚かったことが伺えます。
また安国寺恵瓊は千畳閣において奉行を務めています。
重要文化財 千畳閣
千畳閣までのルート
宮島フェリー乗り場から海を右に見ながら東へ歩くと、有名な大鳥居が見えてきます。
宮島の代名詞、厳島神社の参拝入口近くにある石階段を登れば千畳閣です。
千畳閣の外観
非常に立派で豪壮な木造建築物です。
千畳閣の大きさは正面の幅46,6m、側面の幅28,2m、床面積が1314,3㎡もあります。
屋根の総面積が2009,6㎡もあり、屋根瓦を54,529枚も使用しています。
すぐ隣には五重塔が建っています。
縁の下だけでもかなりの面積です。
五重塔の方へ歩ける通路になっており、構造にも工夫がなされています。
建立に携わった大工の知識と技量の奥深さが伺えます。見事です。
千畳閣の内部
千畳閣の内部は立派な柱と梁で支えられた広大な空間です。
857畳ものスペースがあり千畳閣の名前の由来にもなっています。
千畳閣は豊臣秀吉が毛利家家臣であった安国寺恵瓊に命じて建立されましたが、秀吉死没により未完成のまま現在に至ります。
五重塔
重要文化財|五重塔
千畳閣の近くにそびえ建つ五重塔が建立されたのは1407年(応永14)のことで、現在は国の重要文化財に指定されています。
豊臣秀吉誕生前ですので、千畳閣の工事着工時にはすでに建立されていたことになります。
高さ27,6m、残念ながら現在内部は一般公開されていません。
離れたところからでも存在感を放つ五重塔は、当時の人々の目にもさぞ幻想的に映ったことでしょう。
600年以上前の風景が今も残る宮島。
またいつか必ず訪れてみたい場所です。